話は夏の終わりまで遡る。 最近、ずっと身体の調子が悪いと言っていた嫁さんが、今日はやけに元気に、家中を動き回っている。 仕事から帰宅したばかりの俺の荷物を取り上げるようにして奪うと、バタバタと寝室へ運んでゆく。 後ろ姿が妙に弾んでいて、スキップしているようにさえ見える。 その様子をボケーッと見ていたら、直ぐに寝室から出てきた嫁さんがニコニコと笑いながら俺の手を取った。 「?」 何だ?どうしたんだ??って顔でいたけど、嫁さんはそのまま何も言わずに
今度はグイグイと俺の手を引いて、居間の方へ移動する。
「ここ、座って♪」 ポンポンポンとソファーを叩く。 居間のソファーの所まで連れてこられた俺は、ドサッと勢いを付けて座らされた。 と思ったら、隣に嫁さんも座り込む。 「あたし達の、赤ちゃんよ」 彼女は言った。 嫁さんは俺の両手をとって、自分のお腹にソッと当てさせる。 俺の手の上から、自分も手を重ねながら。 今まで、いつかは来る事だと思いつつも、心の中の何処かで目隠しをしていた、紛うことのない真実が 目の前に、今更のように突きつけらる。 俺は『夫』で『父親』になるんだ。 身体が震えるほどの幸せと、 身体が切り刻まれるような哀しみが、一度に押し寄せてくる。 この時も俺は泣いていたらしい。 気付けば嫁さんの、こちらもまた涙に濡れた顔が目の前にあって、俺の涙を拭ってくれていた。 「いやだ・・・ギバニィが泣くから・・・。 私まで泣いちゃったじゃない。 でも、嬉しい。こんなに喜んでくれて」 小さくクスンと鼻を鳴らす。 「ずっとね、気になってたの・・・赤ちゃんのコト。 だから、とっても嬉しい」 嫁さんはそう言って涙を拭くとニッコリ笑う。 (ああ・・・キレイだなぁ) 思わずにはいられないような、とびっきりの笑顔だった。 「そっか!!俺達の赤ん坊か!!」 俺は、吹っ切るように嫁さんを抱き寄せた。 アメリカから帰ってきた織田との逢瀬も続けながら、俺は嫁さんとの夫婦としての営みも続けていたわけで、 こうなることはわかりきっていた事だ。 だけど、こうなったからには織田との関係も終わりにしなければならない。 ・・・と、嫁さんの妊娠が解って以来、何度思ったことだろう。 思ってはみても、実際は織田に嫁さんの妊娠を匂わすことさえ出来なくて。 それどころか、嫁さんのことは勿論、俺は結婚以来の家族のプライベートを 大事に守り続けていたせいか、マスコミにも(極親しい友人を別にして)知人達にも 出産間際まで知られることはなかった。 日に日に膨らんでゆく嫁さんのお腹に急き立てられながらも、 結局俺は織田にこの事を告げることが出来ないまま、その日を迎えた。 娘の誕生。 あいつがその事を知ったのは、俺の口から直にではなく、 真冬の雪山で見たスポーツ紙の記事かワイドショーだっただろう。 この事が、尚一層あいつを傷つけたに違いなく、それでも今更連絡を取って言い訳や詫びを言うのも違う気がして、 俺は審判を待つ罪人のように、あいつの出方を待つ日々が続いていた。 そうしてあいつから届いた手紙。 思えば、あいつから手紙を貰うのなんか初めてで。 何処かで待ち望んでいたのかもしれない手紙。 届かずそのまま手にすることも無ければよかったのにとも思える手紙。 もしも・・・この手紙を、届かなかった・見なかった事にしたなら、 これまでどおり俺はあいつに想い続けて貰えるだろうか。 何も知らない振りをして、あいつに連絡を取ったなら・・・・・。 本格的な春を直前に控えた、まだ花の蕾も固い春の始めの公園。 俺は大切なこの手紙を膝に広げ、止めどなく溢れるあいつへの未練にも似た想いを持て余したまま、 何時までも何時までも一人座り込んでいた。 2000・11・20UP
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